少し前、新羅の都だった慶州を訪れました。
今回は、百済(韓国語ではペッチェ:백제)の最後の都だった扶餘(プヨ:부여)を、12月の晴れた日に訪ねてみました(鳥は、最後にちょびっと登場です😁)
扶餘と言ってもピンと来ない人が多いかと思いますが、南北に長い韓国真ん中くらいで、西側にある都市です。扶餘になじみがなくても、多くの日本人は歴史の授業で「白村江の戦い(はくすきえのたたかい)」という言葉を聞いた記憶があるのではないでしょうか?
ここで、歴史をちょっと復習してみます。
百済は泗沘(サビ:現在の扶餘)に最後の都を設けたのですが、660年に唐・新羅連合により泗沘は落とされ、百済は滅亡します。しかし、各地の百済の遺臣たちが日本(倭国)との連合軍で、唐・新羅連合と起こした最後の戦が白村江(現在の錦江)で行われます。結局、敗退し、百済の遺臣たちが倭国へと亡命するわけですが、日本と韓民族が連合して戦うって、今の日韓情勢を見ると面白いですよね。
当時の百済は、東アジアでも有数の仏教文化が開花した地だそうで、遺跡は点在していますが、なにせ1300年以上も昔のこと。最初に訪れた扶蘇山城(부소산성)も、なかなか漢城のように城壁が明確に残っているわけではないですね。形式としては2重の城壁が築かれたようですが、ちょっとわかりにくい。
まずは入口の扶蘇山門(泗沘門)前で入場料(2,000ウォン:193円)を払って、軽めのハイキングの開始です(でも気温は一日マイナスです😅)。
頂上へ向かう途中に三忠祠という百済末の三忠臣である成忠・興首・階伯を祀った建物があるのですが、実は別名、扶余神宮というそうです。神宮....そうです、日本です。
かつて倭国と百済とは同盟国であったこともあり、第二次大戦のさなか、朝鮮総督府が、いわゆる「内鮮融和」を目的として建てた、という説もあるようです。
少し寄り道しながら、山城の頂上へ。
頂上から見下ろしたのが、冒頭の錦江の写真です。
さて、ここから川へ降りていく道を行くと、660年の戦の時に、女官が操を守るため身を投げたという場所が落花岩。誇張もあるのでしょうが、その数3,000人とか!
その場に建つ百花亭、そしてそこから淵を見下ろすと、そんな歴史もあったかも、と実感しますね。
ここから、さらに下へ降りていきます。
夏なら遊覧船が出るようですが、冬は一番下へ降りる道は閉鎖。
でも、ここから川面を見下ろすと、鴨の群れが浮かんでいます!
2つのグループに分かれていて、7、80羽ほどのこちらのグループは望遠レンズで寄ってみるとマガモの集団のようです。
一方少し離れた日陰にいるこちらのグループは、黒っぽい体に、お尻に白いアクセントが見えます。実はこれ、カルガモの集団です。軽く100羽は越えてそうです。
次に訪れたのは、百済時代の石塔が残っているという定林寺跡です。
ここでは、百済様式の国宝、五層石塔が有名です。
本当に、石造りのこの塔が百済の時代から建っていたのなら、地震の少ない韓国ならではですね。
さらに扶餘の街を南に降りると、宮南池(궁남지)に辿り着きます。
ここは、百済武王の別邸の池だったそうです。
この池には、抱龍亭という東屋があり、そこへ渡る木橋の風景が有名です。
そして、この池にもカルガモの群れがいます😃
でも、よく見ると、少し小柄な真っ黒な鳥が混じっています。
眼が赤くて、くちばしと額が白い、オオバンです! 初見です!!
カモに混じっていますが、カモ科ではなくクイナ科の鳥で、クイナは漢字では「水鶏」と書き、水の字が付く通りクイナ科の鳥は水辺に住んでいて、オオバンはその中でも一番大きい鳥だそうです。
今回は遺跡探訪が主になりましたが、ここまでです。
※おまけ
扶餘からさらに南に下った光州で、この季節ならではの鳥貝のしゃぶしゃぶを堪能しました。新鮮な鳥貝はシャキシャキした歯ごたえで絶品でした。